名僧

クリシュナムルティ曰く、
「瞑想は言葉を反復することでも、まぼろしを目のあたりにすることでも、あるいは沈黙を養うことでもない。
 数珠や経文は、精神の雑音を静めはしても、結局のところ一種の自己催眠にすぎず、催眠薬を口にするようなものである。」


禅蔵曰く、「今日、歌、うたった。」


クリシュナムルティ曰く、
「瞑想は思考のパターンに自我を包ませることでも、快美な体験に身をまかせることでもない。
 瞑想は始めを持たず、それゆえ終わりがない。
 『今日から思考を制御し、静かに瞑想の姿勢をとり、調息をはじめよう』と言うとき、あなたは自己欺瞞の陥穽にはまったのである。
 何か途方もない思念やイメージに没入することによって、ちょうどこどもがしばらくは玩具に夢中になるように、しばらくは自我を静めることはできるであろう。
 しかしそれは瞑想ではない。
 こどもはその玩具にあきるとまた前のように騒々しく、いたずらになる。」


禅蔵曰く、「とりあえず、明日も、歌、うたっとく。」


クリシュナムルティ曰く、
「瞑想は何か見えない道をたどって、何か空想的な至福を実現することでもない。
 瞑想のさなかの精神は日常たゆむことなく、生の運動をそのすべての関係の中に、言葉によらず、また批評や意見を混ずることなく、ひたすら見、そして聞く。」



クリシュナムルティ曰く、
「快楽と真摯さを両方一度に求めるから絶望的になるのである。
 一方で真摯になろうとして、他方では世間的な快楽を求めようとしている。
 けれども世俗的な快楽は結局のところいかにも卑小なので、さらに加えて<神>という快楽を求めるようになるのである。
 こうした事柄すべてを誰か他人によってではなしに、あなた自身が悟るとき、まさにその悟りによってあなたは弟子であり師となるであろう。
 ここが肝要なところで、そのときあなたは師であり、弟子であり、教えそのものとなるのである。」


禅蔵曰く、「……(沈黙)。」


お茶を啜る。
小便する。
寝る。