末世にて

今年もいろいろありましたが。
末世でしょうか?
そうかもわからん。
親鸞聖人の生きた時代に想いを馳せる。
天災はいつの世にもあるし
人災はずいぶん凶悪化しているような気もするが
人間の本質、人間の愚かさは何も変わっていないのかもわからん。
テレビや携帯電話を棄てても、ツイッターには手を出さなくても
自分の愚かさがマシになるわけではないようだ。


いろいろあるってことは
いろいろ気づかせられるってことでもある。
そういう時代ではあるような気がする。
自分の存在を肯定してくれるような誰かがいてくれるってことは
とてもありがたいことだと思う。
肯定してくれるような人や、肯定してくれないような人との関係性の中にしか「自分」なんてものは存在しないのだろう。
関係性に溺れてしまったり、関係性を断ち切ることでしかドーパミンが放出されない、そういう癖を練り上げた器の中で生きてきた気がする。


器がぱっかり割れたとき
中には何があったでしょう?


何もない。
何も


まずは息をしよう
目の前のことだけに集中しよう
溺れようが、ぶち壊そうが、後から気づくのではなく、その瞬間に味わおう。
ああ、生かされているなあ、と実感している。
生かされてるなら、それを生きよう。
器なしで
いや、仮にも器はあるけれど。
その器で