何かをやっている

何もかもすべてがどっちでもよくなってきた。

死んでもいいし、生きてもいい。

どう違うんだ?

何もかもすべてがどっちでもよくなって初めて、

他人の生き方に文句がなくなった。

そして、近くにいる人を大事にすることは、

遠くにいる人を大事にしないことだとわかった。

「守る」ってのは、攻められたり、侵されたりを前提にしていて、

この国を守るときには、どっかの国の人が死ぬ。

誰かの愛を守れば、誰かの愛が殺される。

人間が生きるためには動物が殺される。

人が死ぬことは悪いことではないかもしれない。

よいことでもないかもしれない。

他人に文句がなくても、利害が一致しないことに変わりない。

ぶつかったときにどうするかは、事前にはわからない。

とにかく生きるのが正しい、とか、ってのは信じてない。

絶望がなけりゃ希望はなく、希望がなけりゃ絶望もない、とか、

相対が絶対だとも断言しない、ということも断言しない。

何もかもすべてがどっちでもいい。

どう違うんだ?
どっちでもいいってのは、分別するから「どっち」が生まれるのか、
分別しなければ、「どっち」は生まれないのか、わからない。

どっちでもいいからこそ、知りたいことがあって、

だから何かをやっている。