無目的的純粋行為

下北沢から渋谷、新宿から吉祥寺へ、貼り紙をして歩く日々。
インターネットにばら撒いた貼り紙と、自分の足で空間を移動して貼ったのと、どっちの方がより手応えがあるか?
両方にそれぞれ長短あって、狭い意味では目的も違うのだが。
少なくともメディアの様々な形態や、いろんなコミュニケーションの方法の比喩としてはおもしろい。
たとえば昨晩、夜中の2時前に麦酒を飲みに出かけて、4時から2時間寝て起きて働きに行って麦酒の汗をかくのは、何なのか?
何の意味があるのか知らないが、そうしなければならない理由があったんだろう。
たとえば帰ることとその場にいることのどっちが当たりまえの手順と思うかによって、帰ることとその場にいることの意味が違ってくる。
行くことと行かないこと。
ここにいることと、ここから去ること。
実際の行動は意味に拘束されない。
ランボーが「錬金術」といい、セザンヌが「実現」といった何かが、時系列的な意味を壊して創りなおすことならば、ぼくらは宇宙を創りなおして調和しよう。
ヘンリー・ミラーがいう「実現された秩序」である「世界」に調和しよう。
まずは動くことだ。